消えたハリマヤシューズを探して

谷口浩美、俺 同い年なんだよね。

全然レベル違うけど、そういや 俺もハリマヤのシューズ履いてたわ。結構流行ってたよな…

 

 

ドラマ『陸王』を地で行く「足袋職人のシューズ」が本当にあった

 埼玉県の足袋(たび)メーカーによるランニングシューズ開発への挑戦を、実業団の駅伝チームもからめて描くテレビドラマ『陸王』がスタートした。原作の『陸王』(集英社刊)は池井戸潤の小説だが、実は約100年前、実際に足袋職人がマラソン足袋を開発し、やがてスポーツシューズメーカーへと成長した事例があったことをご存じだろうか。今となっては歴史の片隅に埋もれてしまった、日本が誇る長距離ランナーと足袋職人のストーリーをこの機会に紹介したい。

ドラマ『陸王』を地で行く「足袋職人のシューズ」が本当にあった|陸上|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

 

 

 

 

明治45年、日本初の五輪マラソン選手は「足袋」を履いて走った

 埼玉県の老舗足袋屋が、大手スポーツシューズメーカーに対抗してランニングシューズ開発に挑む──。そんな池井戸潤の新刊小説『陸王』が話題となっているが、今から約100年前、ひとりの足袋職人が、まだ黎明期の日本マラソン界において競技用の足袋を開発した実話があった。

 東京・大塚に「ハリマヤ」を開いた足袋職人・黒坂辛作(くろさか しんさく)のもとに、近所の東京高等師範学校(現在の筑波大学)の学生・金栗四三(かなぐり しそう)から寄せられた「もっと履きよくて、長持ちする足袋を工夫してくれんか」との要望。持ち前の脚力と持久力を発揮して、ストックホルムオリンピックのマラソン代表選考会に優勝した金栗は、レースで使う足袋を改良する必要性を感じていたのだ。

明治45年、日本初の五輪マラソン選手は「足袋」を履いて走った|陸上|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

 

 

 

ドラマ『陸王』さながら、かつて日本の足袋が世界のマラソンを制した

 日本伝統の足袋業者が、新規事業のランニングシューズ開発にチャレンジするテレビドラマ『陸王』(原作・池井戸潤)が人気を呼んでいる。だが実は、今から約100年前、このドラマと同じような心意気で世界の列強に挑んだ日本の長距離ランナーと、彼を支えるひとりの足袋職人が実在したことは意外と知られていない。

 東京高等師範学校の学生だった金栗四三(かなぐり しそう)は、近所の足袋店「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)に作ってもらった特製マラソン足袋をひっさげて、1912年(明治45年/大正元年ストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場。しかし、調整不足と日射病の影響で金栗は意識朦朧となり、レース中コース脇に迷い込み失踪する大失態を演じてしまう。

 捲土重来を誓った金栗は帰国後、辛作と二人三脚でマラソン足袋の改良に着手する。ゴム底の採用などで耐久性を高めた足袋は1919年(大正8年)、ついに金栗の足に履かれて下関〜東京間1200kmを走破し、その存在を天下に知らしめた。そして「金栗足袋」と名づけられた製品は、金栗以外の長距離ランナーにも履かれ、各地の競技会で目覚ましい結果を残していく……。

ドラマ『陸王』さながら、かつて日本の足袋が世界のマラソンを制した|陸上|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

 

 

 

あのマラソン金メダリストも「幻のハリマヤシューズ」を愛用していた

 多くの感動のなか閉幕したリオ五輪。それよりはるか昔、1912年のストックホルム五輪に出場するため、駆け足自慢の学生・金栗四三(かなぐり しそう)と東京・大塚の足袋屋「ハリマヤ」の職人・黒坂辛作(くろさか しんさく)は、創意工夫を重ねてマラソン用の足袋を作り上げる。それは、足袋屋がスポーツシューズの世界に打って出るベストセラー小説『陸王』(池井戸潤・著)さながらのチャレンジだった。

 ストックホルム五輪のマラソンで完走できなかった苦い経験から、帰国後の金栗は辛作とともにマラソン足袋の改良にとりかかり、その努力はハリマヤの「金栗足袋」へと結実する。そして同時に金栗が立てたもうひとつの誓いがあった。それは、世界に通用するマラソン選手を育成することだった──。

あのマラソン金メダリストも「幻のハリマヤシューズ」を愛用していた|陸上|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

 

 

 

バブルに消えたハリマヤシューズ。日本の「ものづくり」よ永遠に

 今から100年以上前、東京高等師範学校の学生・金栗四三(かなぐり しそう)と、東京・大塚の足袋店ハリマヤの主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)が出会ったことから生まれたマラソン足袋。改良を重ねた製品は「ハリマヤシューズ」として、多くのランナーに愛され、各地の競技会で好成績を収める。

 高度経済成長によって日本が豊かになり、スポーツを楽しむ人々が増えるにつれて、シューズメーカーとしてのハリマヤ運動用品もまた発展し、辛作から数えて3代目、孫の代へと経営も移っていった。当時、ハリマヤはその発祥の地、東京の大塚に本社を構え、北陸地方にいくつかの生産拠点を持っていた。

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